カナダ掲示板 (ワーホリ) - No.267403
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カナダで成功者と言われるために
(トロント) 2026-08-25 01:56:17
カナダに来てる人、主に長期滞在者の方たちでこちらで成功していると言われる人達はどんな人達の事を言うのでしょうか?
1)カナダの会社で仕事してる
2)不動産がある、コンド、戸立の家
3)お金がある、資産がある
4)子供たちが良い学校に行ってる
後何か在りますか?
人は、自分が苦労して手に入れたものほど、それを誇りにしたくなるもんです。
お金がなくて苦労した人は、成功するとお金が自信になる。
学歴を得るために努力した人は、学歴が誇りになる。
家柄や家庭環境に苦労した人は、自分の家や家族が誇りになる。
仕事で認められたかった人は、地位や肩書きが誇りになる。
容姿や結婚、子どもなど、自分が強く望んでようやく手にしたものを、自分の価値の証明にしてしまうこともあります。
それ自体は悪いことやない。
頑張って手に入れたもんを嬉しく思う。それは当たり前や。
ただ、人間はそこからちょっと間違えることがある。
「私はこれを持っている」だけなら幸せなのに、いつの間にか、
「私はあの人より持っている」
という比較に変わってしまう。
お金にも、学歴にも、容姿にも、地位にも、上を見ればきりがない。
だから自分の位置を確かめるために、自分より下に見える誰かを探して、無理やり線を引いてしまう。
「私はあの人とは違う」
「私はここまで来た」
「私は成功者だ」
でもな、そもそも成功者かどうかを、人や社会に決めてもらう必要なんかないんです。
世間は分かりやすい物差しが好きです。
年収はいくらか、どんな会社に勤めているか、どんな学校を出たか、どんな家に住んでいるか。
そういう数字や肩書きなら、他人同士を簡単に並べられるからです。
せやけど、それは社会が都合よく作った順位表にすぎません。
立派な肩書きがあっても、毎日が苦しくて仕方ない人もいる。
大金を持っていても、誰も信用できず、夜も安心して眠れない人もいる。
逆に、たいした肩書きも財産もなくても、好きな人と飯を食って、笑って、よく眠って、「今日も悪くなかったな」と思える人もいる。
どっちが成功者なんや、と言われたら、そんなもん本人が決めたらええんです。
自分が大事にしたかったものを守れた。
嫌なことばかりの人生でも、誰かに優しくできた。
家族を食わせた。
病気や苦労があっても、今日まで生きてきた。
自分なりに納得できる人生を送った。
それも立派な成功です。
成功というのは、社会から表彰状をもらうことやない。
「自分は何を大事にして生きるのか」を自分で決めて、その人生を自分なりに引き受けることやと思うんです。
それを他人の物差しに預けてしまうと、ずっと比較から逃げられません。
年収一千万になったら、次は二千万の人が見える。
立派な家を買ったら、もっと大きな家が目に入る。
学歴を誇れば、もっと上の学校がある。
美人と結婚しても、もっと美しい人はいる。
上なんか、なんぼでもおる。
ほんで上ばっかり見て疲れたら、今度は下を探して安心したくなる。
「自分はあの人よりマシや」
「自分は違う」
そうやって人を見下して、ようやく自分の価値を感じられるようになったら、かなりしんどい生き方です。
せっかく成功しても、その成功に自分が飼われてしもうたら、何のために頑張ったんや、という話です。
反対に、感謝のできる人の幸せは、案外静かなものです。
今日、ご飯を食べられた。
朝、目が覚めて起き上がれた。
誰かとちょっと話せた。
疲れて、眠たくなって、安心して寝られた。
「そんなん当たり前やろ」と思うかもしれません。
でもな、その当たり前が一番ありがたいんです。
本当の生活というのは、ほとんどがそういう何でもない時間でできています。
もちろん、人によって幸せは違います。
大きな家が幸せな人もいる。
仕事で一番になることが幸せな人もいる。
家族が何より大事な人もいれば、一人で静かに暮らすのが幸せな人もいる。
それでええ。
人の幸せまで他人が採点する必要はないんです。
現代は少し、「目に見える幸せ」に寄りすぎているのかもしれません。
お金、肩書き、学歴、家、容姿、旅行、持ち物。
そういうものは写真にも撮れるし、数字にもできる。人にも見せられる。
けれど、人間の幸せには、見せられないものの方が案外多い。
何事もなく一日が終わったこと。
帰る場所があること。
温かいものを食べられること。
安心して眠れる夜があること。
誰かを心配したり、誰かに心配してもらえたりすること。
そして、明日の朝がまた来ること。
そういうものは、SNSに載せても大して映えません。
でも、失ってから分かるんです。
「あれ、ものすごく幸せやったんやな」と。
だから、成功も幸せも、世間が決めるもんやない。
金持ちになったから成功。
偉くなったから成功。
立派な家に住んだから成功。
そんな単純な話やないんです。
自分が選んだ人生を、自分なりに納得して生きられたなら、それでええ。
飯を食って、「うまいな」と思えた。
朝起きて、「今日も起きたな」と思えた。
夜になって眠たくなって、「ほな寝よか」と布団に入れる。
そういう一日をちゃんと幸せと思える人は、案外ものすごく豊かな人です。
「もっと上に行ったら幸せになれる」と走る力も大事や。
でも、「もうここにも幸せはあったんや」と気づく力は、もっと大事かもしれん。
最後に自分の人生を採点するのは、世間でも会社でも学校でもない。
自分です。
せやから、人と比べて「勝った、負けた」ばっかり言うてんと、
自分の飯がうまいか、ちゃんと眠れるか、大事な人に優しくできたか。
親父になって思うのは、結局そこなんやろな、ということです。
28の補足 27は、物凄くいい歳になってやっと色々悟ったような印象を受けるけどそれでもまあまあ良かったんじゃないかな。永遠に悟らないまま、引き際が汚い人もいるから。
業突張りの元政治家とか。
悟れる人間の方が少ないと思いますけどね。
私もそれなりの年齢ですが悟りなんてまだまだ。
自分は悟ったすごいなどと勘違いしてるのが一番やばいです。
33は27の長文を読んで、「自分はこの内容をまだまだ全然悟れていない、煩悩にまみれている、マズイ」と思ったということですか? おいくつの方かわかりませんが。
33はもう既に「それなりの年齢」という自覚があるのなら、かなり意識して悟る努力を重ねていかないと。時間が経つのは早い。ちなみに27だか何だかの長文は35さんの言う通りで、ただの常識ですよ。
「差を取る」は、物事を好き嫌いや損得の二元で強く分けず、比較で心を揺らしすぎない見方に近い言葉です。
仏教の文脈では、何かを良い・悪いと即断して固くつかまえず、起きている事実をそのまま見る、という方向で使われます。悟りは特別な感覚を足すことよりも、差や優劣に振り回される心のクセが静まることとして説明されることが多いです。
悟りにおける「差を取る」は、すべてを同じだと考えることではありません。
大事なのは、違いそのものを消すことではなく、その違いに執着して自分や他人を裁き続けないことです。暑い寒い、好き嫌い、得意不得意のような区別は日常には必要ですが、そこに過剰に巻き込まれない心のあり方を指します。
嬉しくもなんともねぇーよ。
暇な時に百ドル、ルーニーにしてホームレスに差別せず配った方がよっぽどいいし。
彼ら感謝も何もしないけど、それでもゴキブリ女や調子のよい男にかじられるよりまし。
47 そうですよ。ただ、二世三世のボンボンもワンパターンではありません。自分が持ち上げられている理由が理解出来ている人とそうではない人等に分かれます。
