カナダ掲示板 (英語) - No.260741

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良い英語 英語

最も良い英語は?―世界の英語話者は殆どが非ネイティブです。

カリスマ英語講師 T (日本) 2024-03-17 21:04:44

英語文化のある国を英語を公用語としている国と定義するならば、世界の中で英語文化を持つ国は4分の1程度だと推定されます。
厳密に言えば、世界人口約70億人のうち、17.5億人ほどの人が英語での意思疎通が可能ということです。
英語と一口に言っても、各国で話されている英語には独特のなまりがあったり、独自のスラングがあったりしますが、基本的な部分は変わらないと考えれば、英語を話せれば17億人以上の人と話すことができるということになります。
しかし、この約17.5億人という数字はあくまでも英語を実用語として話せる人数であり、第二言語としている国も含まれています。
このうちネイティブスピーカー人口はどのくらいだと思いますか?
ネイティブスピーカー人口は英語を母国語として使用している人口ですから、アメリカやイギリス、カナダなど、名だたる国を連想することができるでしょう。
その土地も広大であり、ネイティブスピーカー人口は多いようにも思えます。
しかし、現実は英語人口約17.5億人の内本当のネイティブスピーカー人口は3.9億人程度しかいません。
実に80%近くの人々はネイティブではない、非ネイティブスピーカーなのです。

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シンプルだけど自分らしい英語

一方で『ことばと文化』(岩波新書)などでよく知られている言語社会学者の鈴木孝夫は,国際共通語としての英語は可能な限り中性的でニュートラルな英語を目指すべき,と提案しています。中性的でニュートラル,をどう解釈するかですが,以前このコラムでも紹介した,どこの地域の色もついていない,最もシンプルな英語「プレーン・イングリッシュ」に近いものではないでしょうか。さらに鈴木孝夫もまた,チヌア・アチベと同様のことを1975年の著書の中で言っています。「イギリス固有の発想と独特のイディオム,発音を持ったものである必要はないし,アメリカのそれである必要もない。それどころか,むしろそうでないことが望ましいとさえ言える。」(『閉ざされた言語・日本語の世界』新潮社1975:220)



シンプルでありながら,借り物の英語ではなく自分の英語を使えることが望ましい,ということではないでしょうか。もちろんオリジナル(ネイティブ)の英語に多少ひっぱられることは当然だと思います。また,どこからどこまでが英語と呼べる範囲で,どこまで個性的になると英語の範疇ではなくなってしまうのか,非常に線引きが難しいです。スシに例えて考えてみると,まぐろのにぎりがオリジナルのスシです。カリフォルニアロールや天ぷらを巻いたスシ,アボガドを周りに巻いたキャタピラーくらいまではスシと呼べる範囲ではないでしょうか。ピザをのせたにぎりになると,少し微妙なラインかもしれません。でもライスを使っている限りはスシの一種とするべきでしょうか?



そもそも日本国内でさえ,寿司と呼べるものの範疇は変わってきているそうです。昔は,鮭は寿司には使われなかったそうです。その習慣が残っているのか,日本のお寿司屋さんでも「鮭」よりも「サーモン」という表示のほうが多い気がします。私の父親は,「サーモンのにぎり そんなもの聞いたことない。そんなの寿司じゃない」と言って,決して食べませんでした。(まあ,カリフォルニアロールは食べていましたが…。)サーモンのにぎりを寿司とは思っていなかったのかもしれません。

オリジナルとのバランスをとる

話がすこし逸れましたが,そもそも,どんなに上手に書かれていても(話されていても),書き手や話し手という発信者と,読み手や聞き手という受信者にはどうしてもギャップが生じるものです。そのギャップはそれぞれの受信者の解釈でよい,としなければ気にしてもキリがありません。多くの名作といわれる文学においても,様々な解釈があってそれを楽しむということができているはずです。その解釈の幅が広いか狭いかの違いで,マニュアルやインストラクションのような文書であれば,解釈の幅はよほど狭くなければ困りますが,解釈の幅が広い文章というのもとても面白いものです。どのくらいのギャップならある程度理解可能な解釈の幅に収まるのか,バランスの問題ではないでしょうか。



物事のバランスをとるのには時間を要すると思います。たとえば,右に傾いているものを真ん中でバランスをとろうとしても,最初は行き過ぎて左に傾いてしまうことがあります。そのあとに真ん中に持ってこようとしても,今度は右に傾いてしまいますが,それを繰り返しながら少しずつバランスがとれるように努力した結果,最終的になんとなくフラフラしながら真ん中あたりに落ち着くのでしょう。



ある落語家の経験を思い出しました。その人は,最初はおとなしく,師匠に教わったとおりの古典落語を演じていたそうです。いつもはかけているメガネも,高座でははずしていました。しかし,あるとき古典的な古典落語ばかりではつまらない,そもそもなぜ着物にこだわる必要があるのか,と伝統やしきたりに挑もうとしたのです。タブーと言われていたメガネをかけ,ジーパンにTシャツで高座にあがり,現代的な言葉づかいで新作落語を演じました。つまり,右に大きく傾いていたものを,極端に大きく左に寄せてみたのです。



しばらくはそれでよかったようですが,やがて衣装は着物に戻り,古典落語も演じるようになりました。やはり着物のほうがなにかと都合がいいそうです。メガネはそのままかけることにし,新作も精力的に演じますが,古典落語を現代的な言葉づかいで演じる,というバランスをとることで人気を博している,そう,あの落語家です。彼が言うには「色々やりすぎて失敗したって言われればそうだろうけど,色々極端なことやってみないとわからないってことがたくさんあるんだよ。そうやって,やっとちょうどいいバランスを見つけるんだから」



日本の英語も世界の英語も,ちょうどいいバランスを見つけようと,いまちょうどフラフラ,ウロウロしているところなのではないでしょうか。解釈の幅を楽しみつつ,「ちょうどいいところ」が見つかる日は遠くないと思います。



Achebe, Chinua (1993 [1975]). “The African writer and the English language,” in Morning Yet on Creation Day: Essays (London: Heinemann Educational).

URL:https://tb.sanseido-publ.co.jp/column/oshima/column-3212/


インド英語も理解しましょうね。❄