トロント掲示板 (生活) - No.267249
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特攻に異議、命尊ぶ「人の道」
(トロント) 2026-08-15 09:58:01
第2次世界大戦末期、爆弾を積んだ航空機などで敵艦に体当たりする特別攻撃(特攻)に公然と異を唱えた指揮官がいた。合理性を重んじた、「芙蓉(ふよう)部隊」の美濃部正少佐=1997年に81歳で死去=だ。元隊員渋谷一男さん(100)=静岡県島田市=は「美濃部さんからは命を大切にする人の道を学んだ」と語り、平和な世界の実現を訴える。
41年12月、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。渋谷さんは翌年、16歳で海軍を志願。「国のために尽くして死ぬのは崇高だと思った」。海軍に入り航空無線を学んだ後、同県焼津市にあった藤枝基地に配属された。
芙蓉部隊は45年1月、この基地で生まれた。基地から見える富士山(芙蓉峰)にちなみ命名された。
指揮官は当時29歳の美濃部氏。自伝「復刻版 大正っ子の太平洋戦記」(方丈社)によると、翌2月の沖縄戦会議で「全機特攻」方針が示されると、「特攻の掛け声ばかりでは勝てない」「同じ死ぬなら、確算ある手段を」などと発言。上官ら約80人を前に猛然と反論し、特攻の代わりに夜間攻撃を認めさせた。
「すごいことを言うなと思った」。後に知った渋谷さんは今も驚きを隠さない。美濃部氏の長女中野桂子さん(81)=浜松市中央区=は「父は常に最善の方法を考える人だった。夜襲の方がうまくいくと思ったのでは」と話す。
ただ、美濃部氏が課した訓練はきつかった。夜間視力強化に向け、隊員は昼夜逆転の生活を送った。午前0時に起床し、夜間飛行の訓練や通信のやり方などを日々学ぶ。渋谷さんも「常に戦果を求められる厳しい訓練だった」と振り返る。
米軍が沖縄に上陸した3月以降、部隊は主力を鹿児島県に移した。渋谷さんは岩川基地(同県曽於市)から2回、2人乗り爆撃機「彗星(すいせい)」で沖縄に出撃。後部座席に偵察員として乗り、攻撃結果を無線で報告した。未明の攻撃だったため彗星が落とす爆弾がさく裂する様子ははっきり見えた。
出撃に伴い、部隊からは戦死者も出た。渋谷さんは美濃部氏について「『無事に帰ってこい』と直接は言わないが、近くにいてそう思っていることはよく分かった。部下を実の弟のように思いやっていた」と懐かしむ。
渋谷さんは戦後、無線技術者として働く一方、非行少年らの更生を支える保護司を約40年務めた。「美濃部さんから命を大切にする姿勢を学び、人助けや社会の役に立ちたいと思った」からだ。
出撃から81年。世界では分断が進み、ロシアによるウクライナ侵攻など戦火は今も続く。「国のトップにはそれぞれの立場があるのは分かるが、話し合いの努力を続けてほしい」と強調する渋谷さん。「命の大切さを理解する子どもが増え、戦争のない世の中になってほしい」と願い続ける。
先日 8月15日二鹿児島県鹿屋市の航空博物館での見学を生まれて初めてして来ました。当時の若者のイザと言う時の思いを感じて来ました。又同時に戦後の今 戦争は経験していない2世、3世、4世の中にも精神的なPTSDを家族を通して感じている人が居りその姿が少しずつ理解され様とメデアでも放送されつつ有る。戦争は良くない事で有る。できれば避けたい。だが何も抑止の用意をしない事が戦争を避ける方法では無い。戦争への投資は今のインターネット、パソコン、超電導の高速電車などの元となった事も事実。世界の国々は弱肉強食の世界で有る。世界の警察と呼ばれて来た米国も過去80年間の間に100以上の国々と戦争をするか圧力をかけて来た。毎年何処かの国と喧嘩をしてきた。
戦争はアメリカの量産体制の好景気の後の不景気の産物だと老齢の私は考える。其れとアメリカに依る中東原油の日本への輸出停止,ちょうど今も似た状態が起きている。戦前 新聞とラジオは戦争を煽り1部の下士官は出過ぎた事をした、今はインターネットが有る
戦争や特攻を安全な場所から美化して、若者の命を当然のように差し出させる思想には強い問題があります。愛国心を語ることと、他人に死を要求することはまったく別です。
ですが、文句ばかりの爺婆が自ら特攻にいくなら大賛成です。
年金額の多いほうからどうぞ。ほら中国軍にお国のために特攻だ―みたいに。
我々若い方が関係ないですしね。
お願いだから観光化した鹿児島だけを訪れないでほしい。
理由は以下から。
同じ特攻の資料館でもこれほど違いがあるんです。
知覧と霞ヶ浦では、特攻の「伝え方」にかなり違いがある。
知覧特攻平和会館も公式には「戦争の悲惨さ、命の尊さ、平和の大切さ」を伝える施設であり、単純に「戦争賛美の施設」と呼ぶのは正確ではない。
ただ、遺影・遺書・家族への手紙など、特攻隊員個人の思いや人生に感情移入する展示が大きな位置を占めるのも事実。知覧が戦後「特攻の町」「戦跡観光地」として形成されていった過程については、福間良明氏らによる研究もある。
一方、霞ヶ浦の予科練平和記念館は、公式展示で特攻を明確に**「非情な作戦」、展示タイトルを「特攻~戦時下の悲劇~」**と位置づけ、「多くの犠牲」「今なお続く傷」まで正面から語っている。
これは単純に「陸軍だから美化、海軍だから反省」と説明できる話ではない。戦後の慰霊のあり方、地域社会、観光、資料館ができた経緯なども違う。
だから、知覧だけを訪れて特攻を理解したつもりにはならないでほしい。マジで。
知覧で隊員一人ひとりの人生や家族への思いを見るのと同時に、霞ヶ浦のように、特攻という作戦そのものの非情さや戦争が残した傷を正面から伝える場所も見てほしい。
英雄だったのか、悲劇だったのか、という二択ではなく、なぜ普通の若者たちが死を前提とした作戦に送り込まれたのか。そこまで考えてこそ、特攻を知ることになると思う。
